前回(パティシエ)に引きつづいて。
世界一ですか...日本人初ですか(実はすごさが分からない)。

港区とか青山とかでなく、滋賀県近江八幡市宮内町っていうのが面白い。

こんなすごい人だったんだ。全然気付かなかった。
今度帰省した時に行ってみよう。

「ラテアート」大会で日本人優勝=ハート模様で世界の頂点に
クラブハリエ日牟禮(ひむれ)カフェ 村山春奈さん(25)

 【ロンドン時事】 「ラテアート」の技術を競い合う世界大会が23日、英ロンドンで開かれ、日本代表として出場したバリスタ(コーヒー入れ職人)、村山春奈さん(25)=クラブハリエ日牟禮(ひむれ)カフェ=が優勝した。同大会での日本人の優勝は初めて。
 「ラテアート」はエスプレッソコーヒーにミルクを注ぎ、表面にハートや葉などの模様を描く技術。大会には各国からバリスタら計35人が参加し、それぞれ8分間で3種類のコーヒーを入れ、味やデザインを競った。
 村山さんはハートが幾層にも重なる絵柄や、枝垂れ柳をイメージしたものなど難易度の高い技に挑み、審査員から高い評価を得た。優勝盾を手にした村山さんは、「日本を代表しているので(デザインに)国柄を出すよう努めた。いろいろな人に支援してらって、ここまで来られてうれしい」と笑顔で喜びを語った。(2010/06/24-07:14)
http://news.biglobe.ne.jp/international/157/jjp_100624_1578231405.html
http://clubharie.jp/news/10/06/24_wlac.html
時事通信社のニュースから。
日本代表ですか...世界大会優勝ですか....日本初ですか...
自分と年齢ほとんど違わないんですが。

人口300人ほどの小さな町なのに、見た目は普通の家ばかりなのに(いや、歴史的建造物もたくさん有るが)、何だかすごい、滋賀県近江八幡市宮内町。

クラブハリエ、これからどうしていくつもりなんだろう。
どうでも良いだろうが、自分はリーフパイが一番素朴で好きだ。

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製菓細工国際大会で初優勝=滋賀のパティシエら日本チーム


 米国で開かれたチョコレートやあめ細工などの製菓技術を競う国際大会「ワールド・ペストリー・チーム・チャンピオンシップ」(WPTC)で、日本チームが優勝したことが7日、国内関係者に入った連絡で分かった。世界からパティシエ(菓子職人)が集まる同大会で日本の優勝は初という。
 日本チームは、滋賀県近江八幡市[宮内町]の洋菓子店「クラブハリエ」の山本隆夫さん(37)ら3人。
 同店によると、大会は8カ国が参加し、米国アリゾナ州フェニックスで6日までの2日間開かれた。大会テーマは「CHILDHOOD」(幼少期)。日本チームはピーターパンの物語をモチーフに、あめ細工でピーターパンを、チョコレート細工でフック船長を作り上げた。(2010/07/07-19:34)

竹の子狩りで商人の思想を

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GWに実家に帰省した際に家の裏の山(八幡山)で竹の子狩り。
共有地(私有地でない)にはセミプロの人が毎朝数人。まぁ素人の自分でも数本は採れる。

このあたりは八幡城豊臣秀次の最初の城)の本丸のあたり。秀次は秀吉の数少ない親族として、その後尾張100万石、関白へと異例の出世を遂げるが、周知のとおり悲惨な最期を遂げる。近江八幡は彼が20代の数年を過ごした土地。
(左)豊臣秀次像、(右)城内の邸宅跡

周囲は平野なので少し登るだけで視界は広がる。織田(安土はすぐ傍だ)・豊臣の時代が過ぎ、徳川の時代になると近江八幡はどの大名にも属さない江戸幕府直轄地となり、八幡の住民は全国で商人として活躍する。直轄地は長崎(貿易),紀伊,高山(木材),佐渡,甲府(金山)、石見(銀山)など産業盛んな所ばかり。徳川幕府も近江八幡の重要性を見抜いていたのだ。

「高田義甫」なる人の記念碑。明治27年建立と有る。家のすぐ裏に有るのにその碑の存在すら知らなかった...碑文は漢文調で難しい。最近設置されたらしい説明文を読むと、勤皇志士っぽいが明治になって帝国水産(後の日本水産、現在のニチレイ)を創立したというのが八幡人っぽい。その他に新聞社、銀行などを設立したそうな。八幡人は商人になるのを義務付けられているかのようだ。

北末町の肥料屋の子供がなぜ討幕運動に関わるようになったのか気になったので調べてみた。彼は少年期に「帰正館」(仲屋町の西川吉輔が創立)という私塾で学び、思想を育んだようだ。一緒に学んだ伊庭貞剛は後に住友財閥総裁となる。この小さな町から世に出た人達の凄さはいつも驚かされる。


山を降りて図書館に。市立図書館が家のすぐ隣に在る。今から15年前、それまでの図書館が老朽化(これまでの建物は江戸時代のもの)の為にここに移転してきた。学生時代にここに在れば良かったのに...

ちょうど「ジャーナリスト」についての本がピックアップされていた。長倉洋海、橋本信介から不肖宮島氏の本まで。こんなところでマスード将軍の写真集を見ることになるとは。いったい誰の趣味なんだ...
 (図書館内の近江商人コーナー)
近江八幡でずっと暮らしているが、まだまだ知らない事は多い。ほとんどの人がそんなこと気にしないで過ごしているというのもまた凄い。1km四方しかない小さなエリア出身の人が全国に散っていると言うのに。

ベトナム渡海

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近江八幡の名前の由来ともなった、日牟礼八幡宮は実家のすぐそばに有る。
小学生の夏休みに毎朝ラジオ体操で行った身近な神社なのだが、ここに珍しい絵馬が有る。日牟礼八幡宮は名前のとおり八幡信仰(一般的には戦の神)の神社だが、この絵馬は商人が納めたものだ。

近江八幡は近江商人の故郷と言われる。
みな、この小さな街から外に出て商売を始めるのだが、この絵馬を納めた「西村太郎右衛門」は目的地をベトナムにした。時代は江戸時代初期。まだ幕藩体制は整っていない。 安土桃山時代の文化、習慣は残っており、鎖国体制も完全ではなかった。近江や堺、長崎からは大勢の者がマカオ、タイ(シャム国)、ベトナム(安南)、フィリピン(呂宋)、カンボジアに出かけ、商売を行った。彼も成功を夢見て、近江八幡を出てアジアに出た。

だが20年後、ベトナムでビジネスに成功した彼が日本に戻って来た時、知らされた現実は過酷なものだった。 江戸幕府は鎖国政策を始め、海外から戻った者は死刑にするという掟が定められたのだ。長崎の港まで戻ってきた彼は上陸することは出来なかった。彼は長崎の町から船に絵師を呼び寄せ、自分の姿を絵に描かせ、その絵を地元の神社(日牟礼八幡宮)に届けさせた。  

童門冬二「西村太郎右衛門」 <><

この「安南渡海船額」は現存する。当時の様子を伝える貴重な文物ということで国の重要文化財に指定されたため本物は見られないのだが、レプリカが社務所の横に普通にかけてある(レプリカといっても年代物)。その絵の中に描かれている商人達は、船の上で食事を摂ったりしているのだが、活き活きとした良い表情で、実に楽しそうなのだ。(この神社には他にも国指定重要文化財が5点有る)

鎖国が始まってから、近江商人の活躍の場はアジアから日本国内に変わる。松前(北海道)との貿易を独占し、京、江戸で名前を挙げ、全国各地に支店網を作り、現代の商社の基礎を完成させた。

アジアとの貿易は忘れられ、西村太郎右衛門がベトナムのトンキン(現在のハノイ)やホイアンで、どんな商売をしていたのかは分かっていない。だが彼の墓は、太平洋戦争後ベトナムで発見された。正福寺(この寺も実家のすぐ傍だ)の過去帳には彼の名も載っているので実在したのは確かだ。

タイのアユタヤ、カンボジアのプノンペン、ベトナムのホイアンには当時(約400年前)の日本人町の跡が残っている。ホイアンには当時の商家/街並みが現存し、1999年に世界遺産に指定された。

江戸時代の小さな田舎町から、大きなことを考え外に出た人が多く居る。
このことを思うと嫌な事は忘れ、自分も何か出来るのではと夢を見ることが出来るのだ。

夢のある校歌

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八幡商業高校は、実家から少し離れた旧市街地の端に有る高校。
その校歌が校風を表していて、特に3番の歌詞が面白い。
歴とした公立高校の校歌だ。


~印度の珠玉アラビアの 香も集めん南洋の
珊瑚琥珀も欧の西 送らん道や幾万里
潮と共に舟を駆る 貿易風の名も良しや~

(意訳)
インドの宝石、アラビアの香料を集めよう。
南洋のサンゴや西欧のコハクも送ろう、何万里もの道を。
海流に乗り、帆を張って駆け巡ろう。
貿易風とは、なんと良い名前なんだろう。

(作詞はなんと土井晩翠) http://www.hassho-ch.ed.jp/kouka.htm

他にも「邦と民との富の道♪」や「鎖国の世にも大八州♪」と言った、普通の校歌には無いような文面。




今は生徒のほとんどが女子の、たまに野球部が甲子園に出るくらいなの普通の高校のようだが、販売実習(いわゆる行商、訪問セールス)が必修であったり、少し変わった学校でもある。

この校歌をみて、面白いと感じる人も居れば、その逆の感想を持つ人も居ると思う。
自分は進取の気概に富む人の方に、"寄らば大樹の陰"のような人よりも魅力を感じる。

この学校は当時近江商人の莫大な寄付によって設立された。全国で四番目の商業学校(一橋/神戸/長崎に次ぐ)。ここの教育が実を結んだのは、卒業生を見れば分かる。地方の一学校とは思えないそうそうたる顔ぶれ。伊藤忠商事の社長は3代目まではここの卒業生。事業を設立した人は数知れず。ここの教育に大きな期待をした近江商人の心意気が、この校歌に現れているのだと思う。


...と書きながらも、自分が通ったのは八幡商業ではなく、その近くの別の高校。
この学校の校歌も校風も、八商とはまた違って独特だったのだが...これはまた別の話。